無知の(無)知

多くの大学からは高等教育機関としての面影も消えつつある。文壇が流れの中で消えていったように、例えば知識人同士の交流による発言や行動が大衆に与える影響というのもまた現代においてしかし、急速に減っていっているようだ。

無教養・無学・無思想、とまではいかなくとも、この現代では、知ること知らないことに関わらずSNSでは多分に影響力を持てる可能性がある。また、元来の影響力とは今日の「ポストのバズり」のような超短期的な影響を想定に入れていなかっただろう。もはや「誰が」「どうやって」ではなく、「何を言ったのか」が重視される世の中になった。

世の中を取り巻く合理主義は、現代に完成しつつある(しかしそれもまた流れていくとは思う)。

ひろゆき氏の「それってあなたの感想ですよね」が爆発的に流行ったのも近頃のことである。

ここでは、世の中が思う合理主義をエセ合理主義と呼んで話を進めていくことにする。

エセ合理主義に至る背景としては、過度な情報化社会になったことが原因の一つだと考える。受け取る情報の密度が増えた結果、その取捨選択にいちいち感情を用いるよりも論理を用いて分類することの方が簡便だからである。

少し本筋から外れるが、私は論理というものが「太さ(強度)、方向、長さ(時間軸)」の3点構成を持つ矢印で表現できると考えている。

例えば、ポテトチップスを買うか迷う時、

「明日、顔が浮腫んでしまうかもしれないからやめておこう」

「10年後には今日食べたくらいで何の影響も出ていないだろう」

どちらも論理は論理であるが時間軸が異なるだけで最終的な解答が変わってくるという結果になった。

本筋に戻ろう。さて、果たして。私が言いたいのは「大衆はこれを理解しているのだろうか?」ということである。

大衆にとって、論理というのが「何か絶対的なもののように」扱われてはいないだろうか。

絶対の答えがあり、もっと極端にはあらゆることが白黒に別れると思う人もあるいはそうでない問題はならグレーがあるとそれもまた極端にして押し並べて話す人がないだろうか?

私にはそういう人が多いように感じられる。

・意識的な環境との相互作用

・無意識的な環境との相互作用

・遺伝に裏付けられた能力による吸収と出力の精度、効率

人は、大まかには以上の要素によってモノを考え言葉にしているように思われる。ここで大切なのは、意識的な環境との相互作用の有無である。

意識的な環境との相互作用とは言い換えるなら、「学習による歴史観の習得や、集団への所属による相互作用による学習」とできるかもしれない、あるいは他にも多様な意味付けができるだろう。

書くのが面倒になってきたので、端折ろう。

現代はこんな風になっているのではなかろうか。

①娯楽に溢れ「学習・習得」がなおざりになる

②①の状態で物事を理解し、エセ合理主義のもと浅論理的※に断じる・意見する

(※造語:浅い論理)

③ここで用いられた3要素から構成される論理の矢印は「往々にして細く・等閑な方向を向いていて・短い」。

そして、それにさえ無自覚でしかしそれを無自覚とも思えず、そういう無自覚な集団に無自覚に所属し、同じような納得のできる意見に囲まれながらぬるま湯に浸かり「そっちは熱いぞ」と意見する。実は気付かず茹でガエルになるのはぬるま湯の方だった、さらには意見に釣られてそれら茹でガエルへの仲間入りをしてしまうなんてオチも、あるかもしれないというわけだ。

(時代が悪いともSNSが悪いとも人が悪いとも言い難いが、そもそも人はそこまで文化や伝統を自由という文脈の中では継承できないものなのかもしれない。)

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