台湾有事は対岸の火事か

高市政権に代わり中国への姿勢がガラッと変わった。日本は保守のムードが漂い、国民の支持は加速している。

政権は改革的な姿勢が強く、それは国内の利権に対しても(日本版DOGEの設置含む)、中国に対しても同様である。

対中国への強硬的とも言える姿勢が果たして近い将来にどういう影響を持つだろうか。ここに考えを残しておこうとおもう。

1番の懸念は台湾有事についてである。台湾側からの発信にも含まれるように台湾有事は対岸の火事ではない。ひいては、沖縄を通して日本における国防上の問題と密接である。ことが起きれば海を隔てた隣国というだけでも関与せざるを得ないだけでなく、その際に友好的な関係が口先だけではないことを示していくことは「以後」の国際政治にとっても重要であるから、それが差し迫っていることとあるいは加速させている可能性とを鑑みて政府は早急にその対応を考えていかなければならない(現に防衛大臣の口ぶりからして、ことは差し迫っているようだ)。

この文章をもって私が何を言いたいのかというと、「論理的に正しいことを毅然として主張していくこと、その頻度を高く持つこと」のポジティブとネガティブが中国が持つ元々のあるいはそれによって変容していく思惑の中で、果たして有事にどういう影響を持つか、国民は国民視点で考えていかなければならないということだ(全体の奥行きが不透明であるためにどれが正解かは断言できないが、多くの国民が政治の動きに常に疑いを持つ姿勢こそ結果的に大局的な適解を導けるはずだと考えている。賛同でも批判でもなく疑いこそが国民に課せられた監視義務とも表現できるのではなかろうか。)。

現政権の支持率が、ある世代にとって、あるいは全世代にとって過半数を超えるような場合は、往々にして、民主主義の持つ怖さが露呈しやすい。元々のバランスが崩れていて国民が政治に強く不満を持っている時、民主主義は本来の政治速度という足枷を失い代わりに加速主義的な振る舞いを見せ始める。国民は「良くやった、もっともっと住み良くしよう」という真心の一心で目の前の問題が取り除かれたことにのみ安堵し世間とそれを確認しあう。

まるでジレンマのような政治の加速を今は誰も憂慮していないようだ。

時代を遡れば、例えば文壇があり、政治とは違う場所から大衆へ政治を訴える知識人たちがいた。彼らの存在意義はもはや文を認めることだけではなく正しい方向に世論を導く役割も果たしていた。

現代では代わりにSNSの病魔それ自体が両手を広げ大衆を扇動している。深刻なのはそういう知識人がいないということだけではなく、誰もが自分に考える力がよほどあり(あるいは素知らぬ他者の方がよほどあると考え)そして、SNSはそれの監視装置やあたかも補助輪としての機能が内包される小さな国家であるとそのように考える人が少なくないように見えることだ(しかし、部分的には正しいこともある。ただ機能として不健全さを孕んでおり、だからこそ部分的には間違っていると考えられる箇所も少なくない)。

歴史は繰り返す。しかし繰り返される場所がデジタル空間へと移ったようだ。悲しいかな歴史の知らない欺瞞と怠惰の主義主張がSNSには満ち溢れている(間違いのひとつがこれである。コミュニティノートもしかしあまりに部分的で不健全だ)。

きっと多くの国民は、先の大戦のドイツを見た時、その残虐極まりない行為の数々から「あんなのとはちがう」とそれらを一息に視界から外してしまうだろう。しかし、この閉まっている蓋を誰かが外から開ける時、「あれはやりすぎだった」と「熱に浮かされていた」とそうしてその過ちが認められることがないように、大衆の静かな熱狂という病魔をまずは認めるところから始めるべきである。

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