H.I.Blog

  • 次元についての考察

    現在の研究の主題は

    質量階層問題における幾何学的解法をラグランジアンに移す研究。

    Yukawa項を入れ替えるだけorヒッグスに幾何学的な制限を加える込みかというところだけれども、

    次元というものへの感覚がだんだん面白くなってきたのでここに記しておきたい。

    例えば超弦理論やM理論などでは10次元11次元…などと普通に出てくるがあれを普通に聞いたら全く意味がわからないはずだ。

    ドラえもんでさえ4次元ポケット、つまり4次元しか出てこないのに、10?あとは、空間xyzに時間tで4次元はわかるけど10?5でもわからないのに。

    計算上要請される次元に対して、それが物理的実体として何を示すかは自明とは言い難い。

    ただ、私の研究を通じて言えそうなことは増えてきた。

    例えば、ある構成要素が面積的な表現を示すとき。これは2次元表現となる。そしてその面積表現そのものその全てが次の面積的な表現の構成要素となるとき、それは3次元を示す。概念的にはそれを繰り返していくということであり、そして、それは必ずしも空間x,y,zとは一致しないということ。その中のある構成要素が空間内でどの面積的な制約を受けるかどこまでを受けると、というそのランクづけとしての次元数が見えてきている。

  • 台湾有事は対岸の火事か

    高市政権に代わり中国への姿勢がガラッと変わった。日本は保守のムードが漂い、国民の支持は加速している。

    政権は改革的な姿勢が強く、それは国内の利権に対しても(日本版DOGEの設置含む)、中国に対しても同様である。

    対中国への強硬的とも言える姿勢が果たして近い将来にどういう影響を持つだろうか。ここに考えを残しておこうとおもう。

    1番の懸念は台湾有事についてである。台湾側からの発信にも含まれるように台湾有事は対岸の火事ではない。ひいては、沖縄を通して日本における国防上の問題と密接である。ことが起きれば海を隔てた隣国というだけでも関与せざるを得ないだけでなく、その際に友好的な関係が口先だけではないことを示していくことは「以後」の国際政治にとっても重要であるから、それが差し迫っていることとあるいは加速させている可能性とを鑑みて政府は早急にその対応を考えていかなければならない(現に防衛大臣の口ぶりからして、ことは差し迫っているようだ)。

    この文章をもって私が何を言いたいのかというと、「論理的に正しいことを毅然として主張していくこと、その頻度を高く持つこと」のポジティブとネガティブが中国が持つ元々のあるいはそれによって変容していく思惑の中で、果たして有事にどういう影響を持つか、国民は国民視点で考えていかなければならないということだ(全体の奥行きが不透明であるためにどれが正解かは断言できないが、多くの国民が政治の動きに常に疑いを持つ姿勢こそ結果的に大局的な適解を導けるはずだと考えている。賛同でも批判でもなく疑いこそが国民に課せられた監視義務とも表現できるのではなかろうか。)。

    現政権の支持率が、ある世代にとって、あるいは全世代にとって過半数を超えるような場合は、往々にして、民主主義の持つ怖さが露呈しやすい。元々のバランスが崩れていて国民が政治に強く不満を持っている時、民主主義は本来の政治速度という足枷を失い代わりに加速主義的な振る舞いを見せ始める。国民は「良くやった、もっともっと住み良くしよう」という真心の一心で目の前の問題が取り除かれたことにのみ安堵し世間とそれを確認しあう。

    まるでジレンマのような政治の加速を今は誰も憂慮していないようだ。

    時代を遡れば、例えば文壇があり、政治とは違う場所から大衆へ政治を訴える知識人たちがいた。彼らの存在意義はもはや文を認めることだけではなく正しい方向に世論を導く役割も果たしていた。

    現代では代わりにSNSの病魔それ自体が両手を広げ大衆を扇動している。深刻なのはそういう知識人がいないということだけではなく、誰もが自分に考える力がよほどあり(あるいは素知らぬ他者の方がよほどあると考え)そして、SNSはそれの監視装置やあたかも補助輪としての機能が内包される小さな国家であるとそのように考える人が少なくないように見えることだ(しかし、部分的には正しいこともある。ただ機能として不健全さを孕んでおり、だからこそ部分的には間違っていると考えられる箇所も少なくない)。

    歴史は繰り返す。しかし繰り返される場所がデジタル空間へと移ったようだ。悲しいかな歴史の知らない欺瞞と怠惰の主義主張がSNSには満ち溢れている(間違いのひとつがこれである。コミュニティノートもしかしあまりに部分的で不健全だ)。

    きっと多くの国民は、先の大戦のドイツを見た時、その残虐極まりない行為の数々から「あんなのとはちがう」とそれらを一息に視界から外してしまうだろう。しかし、この閉まっている蓋を誰かが外から開ける時、「あれはやりすぎだった」と「熱に浮かされていた」とそうしてその過ちが認められることがないように、大衆の静かな熱狂という病魔をまずは認めるところから始めるべきである。

  • エネルギーというもの

    エネルギーと聞いて何を思い浮かべるだろうか。

    光、炎、音?そんなところだろうと思う。

    結論これらはエネルギーそのものではない。

    エネルギーの作用の表出であり、エネルギーとは実は私たちの多数が思っているよりずっと理解し難いものだ。

    一般にエネルギーとは、「何かをしでかす力」という表現をされる。例えば鉄球を窓ガラスに向かって投げれば、鉄球が窓ガラスを割るかもしれない。込められたエネルギーが作用し、現象として「窓ガラスが割れた」のである。

    エネルギーと質量の関係はとても面白い。

    次。

  • 科学的であること

    それが科学的であるか否かということと、科学的であることそれ自体の定義については、科学を対象とした場合に抑えておかなければならない重要なことである。

    イギリスのカール・ポパーを筆頭とした、近代科学たる条件の最もなところは以下であると考える。

    ①反証可能であること

    ②検証可能であること

    ③未知の予測を示すこと

    反証可能性については都合の良さをそこに含めない。即ち、Aであると予想し、相反するBという結果が得られる可能性もある場合、「それはAでないが解釈の変更でBという結果も意味を持つ」というのを主張することは、それは何も言っていないのと近いことを意味し、すなわち明確な反証可能性の消失を意味する。哲学的枠組みに端を発した弁証法は、自然科学とは整合しない。

    検証可能であることも非常に重要である。つまり、哲学を科学に降ろす営みに不可欠である。ある意味ではこの項目こそが科学の日進月歩に大きな制限をかける効果を持っているとも表現できるだろう。

    未知の予測を示すこと。すなわちこれは反証可能性への補助輪としての役割を果たすのだ。

  • ビットコインの話

    このブログにいつ書いたかあるいは書いていないかもわかりませんが、常々言っていたのは人の考える「完璧」ほど、それは複雑になるほど脆く、神にはなれないということです。

    つまり、より具象的な話に落とすとすれば、ビットコインの「全員が徒競走で1位を目指して走っているんだから横槍(不正)を入れて妨害するのは困難だ」という主張は非常に怪しいものがある、ということです。

    人の論理ほど脆弱で一貫していないものはありません。

    自転車が発明された時代も、

    「野蛮」「保険適用外」「不健康」と

    さまざま批判をくらっていましたが、

    自動車が出てきてというのもありながら

    やはりその言説は恥ずかしいものであったと言わざるを得ません。

    AI絵に関する、人間の創造性に係る神話めいた信頼も、いわば傾斜の付けた確立機としてAIをコントロールすることでそれは解決できるでしょう。既にジブリを模倣した画風やさまざまなものをより端的に扱いAIに出力させる技術が発展してきていますしね。

    https://x.com/sou_btc/status/1927163200736264403?s=53&t=HYr1nMBEUGc4jDN8S_azFg

  • 何をすべきか

    とにかく、技術の先端に立てる時代であるし、その付近の先頭に立てる時代だとも思う。

    戦略ゲームの中でどこに優位があり、というのも考えながら他方で執着的なこだわりがないといけないと感じる。

    最新の技術をいかにモジュールとして世界に溶け込ませていくかというのはとても大事だと思う。

    かかる技術は先頭から遅れていても追えていれば充分かもしれない。

    つまりここで言いたいのは、そうでないインフラストラクチャーの話で、例えば常々、AIは手のひらに乗せられたらいいと思っている。根本的に、何かの製品というわけではなくて、とにかく、例えば手のひらに乗せたものを接続する基盤が大切なんだと思う。モジュールにすべきものとそうでないものの選別の上でそれがうまく切り分けられればすごくエコで賢く便利で文化伝統的なアナログなものができる。例えばメガネのフレームの一部にType-Cがさせる場所があって、従来のUSBメモリよりはるかに小さいものをそこにはめると、例えばトニースタークでなくてもトニーのAIと話せたり。一見するとというより人に話すとそれ(移し替えやアップデート)はデジタルで可能というが、それと同等かそれ以上にアナログには執着すべき理由がある。つまりこうだ。AIが作れなくてもそれを支えるインフラなら作れるかもしれない。逆も然りだ。

    ここにベットするために今後を捧げられたら本望かもしれない。それは、次世代のものづくりだ。

  • Googleのメガネへの期待(?)

    Googleは過去にレゴブロックからインスピレーションを得たスマホの開発で頓挫した経験がある。

    その発想はメガネに飛ばすべきだ。

    デジタル(AI・回路)をどこまでアナログ部品として、交換可能に落とし込めるかが勝負だ。

    例えばメガネの耳掛け部分の内側がブロックごと外れるようになっていて、そこにバッテリー、

    反対側には回路、AIパッチ、グラスのレンズも交換さえすれば最新性能の何か(?)が楽しめるとか。とにかく変数とそうでないものをしっかり区別してデジタルのアップデートとアナログのアップデートを両輪に備えた次世代型デバイスが必要だ。

    しかもこれは、彼らに限ったことではない。

    機能自体の核が作れなくても、その器が創造できれば市場をとれる可能性だってある。

    技術の中でクローズド・オープンにする場所を今こそもっと考えるべきだ、デジタルもアナログも。全てはそこから始められる。

  • ハードウェアの時代へ

    ソフトウェアのエンジニアリングは,ある意味もう充分だろうと思う、係るコスト等々を踏まえても、中身さえ入れ替えれば常に最高のパフォーマンスを出せるハードウェアを創造性巧みに作り出せる環境を日本は整えていくべきだろうと思う。

    もっとコンパクトにもっと端的に明快に、あらゆる補助輪として邪魔をせず付加価値として振る舞い続ける外枠が求められているようだ。

  • 絶対にAKB48リバイバル来るやん

    インスタの運用も秀逸ながら、メンバー内での統率が取れているグループ。という印象。

    ブランディングがブレないあたり、全盛期をみんなが理解しているからこそ、継承が成り立ちやすくなっている側面が大きいのかもしれない。

    少し、テレビから遠ざかる期間があったことはAKBとしての新体制構築に良い影響を及ぼしたと思わざるを得ない。AKBをもう一度という雰囲気がすごく感じられる。

    楽曲についても65thシングルの完成度然り、全盛期をしっかり継承しているAKBらしさを感じる。

  • 1人の熱狂から始まる

    どんな世界的なブランドもカルチャーも作品もたった1人の熱狂から始まる。

    お金にならないことにどれだけ夢中になれるだろうか、何かを始めることに対して大人になるとビジネス的な観念が生まれてきてしまうのが多いようだ。

    今の時代、データがものを言う。データを用いてそれは決して熱狂的でないように振る舞い、強かに市場を奪う彼らがいる。

    彼らをみると、ああなれたらと思う人がいる。

    でも、彼らも人知れず熱狂している。

    それが仕事になった当選者がそうでない者にはそう見えている。

    どんな巨大な熱狂も、たった1人の熱狂から生まれる。

    熱狂とはなんだろうか、他者が嫌がるこだわりだろうか、愛情だろうか、努力だろうか、才能の類だろうか、とにかく、資本主義でもなければ社会主義でもない、個人主義でもなければ全体主義でも、リバタリアン?ヒッピー?独裁者?奴隷?犯罪者?怪我人?暴徒?詩人?現実主義者?政治家?

    熱狂とは、なんだろうか。