H.I.Blog

  • エネルギーというもの

    エネルギーと聞いて何を思い浮かべるだろうか。

    光、炎、音?そんなところだろうと思う。

    結論これらはエネルギーそのものではない。

    エネルギーの作用の表出であり、エネルギーとは実は私たちの多数が思っているよりずっと理解し難いものだ。

    一般にエネルギーとは、「何かをしでかす力」という表現をされる。例えば鉄球を窓ガラスに向かって投げれば、鉄球が窓ガラスを割るかもしれない。込められたエネルギーが作用し、現象として「窓ガラスが割れた」のである。

    エネルギーと質量の関係はとても面白い。

    次。

  • 科学的であること

    それが科学的であるか否かということと、科学的であることそれ自体の定義については、科学を対象とした場合に抑えておかなければならない重要なことである。

    イギリスのカール・ポパーを筆頭とした、近代科学たる条件の最もなところは以下であると考える。

    ①反証可能であること

    ②検証可能であること

    ③未知の予測を示すこと

    反証可能性については都合の良さをそこに含めない。即ち、Aであると予想し、相反するBという結果が得られる可能性もある場合、「それはAでないが解釈の変更でBという結果も意味を持つ」というのを主張することは、それは何も言っていないのと近いことを意味し、すなわち明確な反証可能性の消失を意味する。哲学的枠組みに端を発した弁証法は、自然科学とは整合しない。

    検証可能であることも非常に重要である。つまり、哲学を科学に降ろす営みに不可欠である。ある意味ではこの項目こそが科学の日進月歩に大きな制限をかける効果を持っているとも表現できるだろう。

    未知の予測を示すこと。すなわちこれは反証可能性への補助輪としての役割を果たすのだ。

  • ビットコインの話

    このブログにいつ書いたかあるいは書いていないかもわかりませんが、常々言っていたのは人の考える「完璧」ほど、それは複雑になるほど脆く、神にはなれないということです。

    つまり、より具象的な話に落とすとすれば、ビットコインの「全員が徒競走で1位を目指して走っているんだから横槍(不正)を入れて妨害するのは困難だ」という主張は非常に怪しいものがある、ということです。

    人の論理ほど脆弱で一貫していないものはありません。

    自転車が発明された時代も、

    「野蛮」「保険適用外」「不健康」と

    さまざま批判をくらっていましたが、

    自動車が出てきてというのもありながら

    やはりその言説は恥ずかしいものであったと言わざるを得ません。

    AI絵に関する、人間の創造性に係る神話めいた信頼も、いわば傾斜の付けた確立機としてAIをコントロールすることでそれは解決できるでしょう。既にジブリを模倣した画風やさまざまなものをより端的に扱いAIに出力させる技術が発展してきていますしね。

    https://x.com/sou_btc/status/1927163200736264403?s=53&t=HYr1nMBEUGc4jDN8S_azFg

  • 何をすべきか

    とにかく、技術の先端に立てる時代であるし、その付近の先頭に立てる時代だとも思う。

    戦略ゲームの中でどこに優位があり、というのも考えながら他方で執着的なこだわりがないといけないと感じる。

    最新の技術をいかにモジュールとして世界に溶け込ませていくかというのはとても大事だと思う。

    かかる技術は先頭から遅れていても追えていれば充分かもしれない。

    つまりここで言いたいのは、そうでないインフラストラクチャーの話で、例えば常々、AIは手のひらに乗せられたらいいと思っている。根本的に、何かの製品というわけではなくて、とにかく、例えば手のひらに乗せたものを接続する基盤が大切なんだと思う。モジュールにすべきものとそうでないものの選別の上でそれがうまく切り分けられればすごくエコで賢く便利で文化伝統的なアナログなものができる。例えばメガネのフレームの一部にType-Cがさせる場所があって、従来のUSBメモリよりはるかに小さいものをそこにはめると、例えばトニースタークでなくてもトニーのAIと話せたり。一見するとというより人に話すとそれ(移し替えやアップデート)はデジタルで可能というが、それと同等かそれ以上にアナログには執着すべき理由がある。つまりこうだ。AIが作れなくてもそれを支えるインフラなら作れるかもしれない。逆も然りだ。

    ここにベットするために今後を捧げられたら本望かもしれない。それは、次世代のものづくりだ。

  • Googleのメガネへの期待(?)

    Googleは過去にレゴブロックからインスピレーションを得たスマホの開発で頓挫した経験がある。

    その発想はメガネに飛ばすべきだ。

    デジタル(AI・回路)をどこまでアナログ部品として、交換可能に落とし込めるかが勝負だ。

    例えばメガネの耳掛け部分の内側がブロックごと外れるようになっていて、そこにバッテリー、

    反対側には回路、AIパッチ、グラスのレンズも交換さえすれば最新性能の何か(?)が楽しめるとか。とにかく変数とそうでないものをしっかり区別してデジタルのアップデートとアナログのアップデートを両輪に備えた次世代型デバイスが必要だ。

    しかもこれは、彼らに限ったことではない。

    機能自体の核が作れなくても、その器が創造できれば市場をとれる可能性だってある。

    技術の中でクローズド・オープンにする場所を今こそもっと考えるべきだ、デジタルもアナログも。全てはそこから始められる。

  • ハードウェアの時代へ

    ソフトウェアのエンジニアリングは,ある意味もう充分だろうと思う、係るコスト等々を踏まえても、中身さえ入れ替えれば常に最高のパフォーマンスを出せるハードウェアを創造性巧みに作り出せる環境を日本は整えていくべきだろうと思う。

    もっとコンパクトにもっと端的に明快に、あらゆる補助輪として邪魔をせず付加価値として振る舞い続ける外枠が求められているようだ。

  • 絶対にAKB48リバイバル来るやん

    インスタの運用も秀逸ながら、メンバー内での統率が取れているグループ。という印象。

    ブランディングがブレないあたり、全盛期をみんなが理解しているからこそ、継承が成り立ちやすくなっている側面が大きいのかもしれない。

    少し、テレビから遠ざかる期間があったことはAKBとしての新体制構築に良い影響を及ぼしたと思わざるを得ない。AKBをもう一度という雰囲気がすごく感じられる。

    楽曲についても65thシングルの完成度然り、全盛期をしっかり継承しているAKBらしさを感じる。

  • 1人の熱狂から始まる

    どんな世界的なブランドもカルチャーも作品もたった1人の熱狂から始まる。

    お金にならないことにどれだけ夢中になれるだろうか、何かを始めることに対して大人になるとビジネス的な観念が生まれてきてしまうのが多いようだ。

    今の時代、データがものを言う。データを用いてそれは決して熱狂的でないように振る舞い、強かに市場を奪う彼らがいる。

    彼らをみると、ああなれたらと思う人がいる。

    でも、彼らも人知れず熱狂している。

    それが仕事になった当選者がそうでない者にはそう見えている。

    どんな巨大な熱狂も、たった1人の熱狂から生まれる。

    熱狂とはなんだろうか、他者が嫌がるこだわりだろうか、愛情だろうか、努力だろうか、才能の類だろうか、とにかく、資本主義でもなければ社会主義でもない、個人主義でもなければ全体主義でも、リバタリアン?ヒッピー?独裁者?奴隷?犯罪者?怪我人?暴徒?詩人?現実主義者?政治家?

    熱狂とは、なんだろうか。

  • 無知の(無)知

    多くの大学からは高等教育機関としての面影も消えつつある。文壇が流れの中で消えていったように、例えば知識人同士の交流による発言や行動が大衆に与える影響というのもまた現代においてしかし、急速に減っていっているようだ。

    無教養・無学・無思想、とまではいかなくとも、この現代では、知ること知らないことに関わらずSNSでは多分に影響力を持てる可能性がある。また、元来の影響力とは今日の「ポストのバズり」のような超短期的な影響を想定に入れていなかっただろう。もはや「誰が」「どうやって」ではなく、「何を言ったのか」が重視される世の中になった。

    世の中を取り巻く合理主義は、現代に完成しつつある(しかしそれもまた流れていくとは思う)。

    ひろゆき氏の「それってあなたの感想ですよね」が爆発的に流行ったのも近頃のことである。

    ここでは、世の中が思う合理主義をエセ合理主義と呼んで話を進めていくことにする。

    エセ合理主義に至る背景としては、過度な情報化社会になったことが原因の一つだと考える。受け取る情報の密度が増えた結果、その取捨選択にいちいち感情を用いるよりも論理を用いて分類することの方が簡便だからである。

    少し本筋から外れるが、私は論理というものが「太さ(強度)、方向、長さ(時間軸)」の3点構成を持つ矢印で表現できると考えている。

    例えば、ポテトチップスを買うか迷う時、

    「明日、顔が浮腫んでしまうかもしれないからやめておこう」

    「10年後には今日食べたくらいで何の影響も出ていないだろう」

    どちらも論理は論理であるが時間軸が異なるだけで最終的な解答が変わってくるという結果になった。

    本筋に戻ろう。さて、果たして。私が言いたいのは「大衆はこれを理解しているのだろうか?」ということである。

    大衆にとって、論理というのが「何か絶対的なもののように」扱われてはいないだろうか。

    絶対の答えがあり、もっと極端にはあらゆることが白黒に別れると思う人もあるいはそうでない問題はならグレーがあるとそれもまた極端にして押し並べて話す人がないだろうか?

    私にはそういう人が多いように感じられる。

    ・意識的な環境との相互作用

    ・無意識的な環境との相互作用

    ・遺伝に裏付けられた能力による吸収と出力の精度、効率

    人は、大まかには以上の要素によってモノを考え言葉にしているように思われる。ここで大切なのは、意識的な環境との相互作用の有無である。

    意識的な環境との相互作用とは言い換えるなら、「学習による歴史観の習得や、集団への所属による相互作用による学習」とできるかもしれない、あるいは他にも多様な意味付けができるだろう。

    書くのが面倒になってきたので、端折ろう。

    現代はこんな風になっているのではなかろうか。

    ①娯楽に溢れ「学習・習得」がなおざりになる

    ②①の状態で物事を理解し、エセ合理主義のもと浅論理的※に断じる・意見する

    (※造語:浅い論理)

    ③ここで用いられた3要素から構成される論理の矢印は「往々にして細く・等閑な方向を向いていて・短い」。

    そして、それにさえ無自覚でしかしそれを無自覚とも思えず、そういう無自覚な集団に無自覚に所属し、同じような納得のできる意見に囲まれながらぬるま湯に浸かり「そっちは熱いぞ」と意見する。実は気付かず茹でガエルになるのはぬるま湯の方だった、さらには意見に釣られてそれら茹でガエルへの仲間入りをしてしまうなんてオチも、あるかもしれないというわけだ。

    (時代が悪いともSNSが悪いとも人が悪いとも言い難いが、そもそも人はそこまで文化や伝統を自由という文脈の中では継承できないものなのかもしれない。)

  • 意識について

    私たちは、ある意味、「動的な傾斜を伴った確率機」であるといえると考えます。

    ここでいう傾斜とは遺伝や環境にあたります。

    環境は常に私たちに短期的、中期的、長期的な影響を与えています。傾斜が変動を続ける、簡単で他領域との繋がりが希薄な質問にはそういう環境による傾斜の変化が如実に反映されやすいと考えます。それはすなわち時間というものが相対的なものでなく私たち自身にとって絶対的なものとして見える要因を作り出します。この世の中に、真に静的な確率器と呼べるものは例えばデジタル上にしか存在することができないかも分かりません。

    そのように考えると、私たちの意識や意思決定プロセスというのは逐次的に動的に変化し続ける「動的な傾斜を伴った確率器」と言って差し支えないように思えてきます。その変化分に私たちは時間的な成長を重ねて理解をすることができるようになるでしょう。これがヒトが時間というものを理解しづらい真の要因であると考えています。