投稿者: Hiroto-Iwasaki

  • 認識論:金銭と金とNFTアートの世界

    「金銭というものに、それ単体に物理的な存在意義があるでしょうか。」

    こういう物言いはとても嫌いです。

    それ単体だけで、修辞疑問として考えを押し付けるように聞こえるからです。

    「金銭そのものに、どれ程の物理的な存在意義があると考えられますか?」

    さて、今日はこんな話から始めてみたいと思います。

    1.金銭(貨幣)の役割と歴史

    金銭、すなわち貨幣には長い歴史があり、最も古い貨幣はメソポタミア文明、紀元前4300年ほどまでさかのぼります。

    最も短絡的に、それだけの歴史が人々に貨幣への信頼を醸成させてきたと表現できるかもしれません。

    何かを譲る時、また譲り受ける時、物々交換では効率が良くありませんね。ですから人々は、取引に際して貨幣というものを用いるようになりました。

    貨幣は「価値の創出と保護(他国とのバランスもこれに含まれます)」によって、現実世界においての「役割」を持つことができるのです。

    2.金について

    現在、1kgのインゴットはこのくらいの値段です。

    1kg=16,769,000円(2025/05/02発表)

    鉄1kgはというと、100円にも満たない価格です。

    鉄1kg=100円未満(38〜50程度)

    「両者の違いはなんだと思いますか?」

    そう聞かれたら私はきっと次のように答えます。

    「希少性と装飾性(華やかさ・煌びやかさ・)だろう。流動性はその下くらいで、案外、重さというのはこの文脈では不適切だろうと思う。それは、金属だからなんらかの形でプラスに働くのかもしれないが間接的なもので実はあまり影響がないと思うから。」

    私の意見を真っ当だとして先に進んでみましょう。特段当たり障りのない回答ですからそこまで問題にもならないと思います。

    先ほど私の口から出た「希少性」というのは、物理的な場合も概念的な場合も人間社会では特別に扱われる場合が多いはずですね。

    「認識の上に成り立つ希少性は、決して、事実の上に成り立つわけではないのです。」

    このことを考えていただきたいと思います。

    3.NFTアートについて

    NFTアートというものがあります。

    それらは所有権を主張できるデジタルなアートとして一時期とても注目されていましたね。

    しかし、一昨年の時点で私には、これが一過性に過ぎないものであることが予想できていました。

    あるいは「時代に対して先行し過ぎた産物だった」という意味で一時的には廃れてしまうことが確かに予想できていました。

    事実、日経新聞 の記事にある通り

    現在のNFT市場の取引高は

    ピーク時の8割減となっています。

    4.認識と希少性、ではその認識とは何であるか

    NFTアートは、それ自体のコピーが作れてしまうので、所有権がその権利のある人に帰属していたとしてもそこに希少性からなる価値がなかなか生まれにくいのです。というよりも、所有権とアート自体との関係性を第三者に認識させる行為が難航していたように思われます。

    また、Bitcoinを筆頭とする仮想通貨に絡められながら、NFTアートがとても先鋭的な形で世の中に出てきてしまったのも不幸であったと思います。

    私は、貨幣より金にその性質が近いNFTアートはその希少性が認識された方がいいわけですが、市場の先導者はこの問題を避けて通ることができないのではないかとみていました。

    つまり、先導者にとって「アートそれ自体はともすればコモディティに近いのにその所有権を入手するために貨幣を注ぐのは、時代的にはナンセンスな行為に思えてしまうのではないか」と考えたからです。

    その希少性やアートそれ自体を他者に認識されるインフラが整わなかったのが個人的には残念でしたが(これの方が大きいかもなぁ)。

    販売機会を損ねたブランドバッグを燃やして、流通させずブランドを守る。そういうハイブランドとしての守り方のできないNFTアートが、その利用インフラさえ整っていない状態でしかもBitcoinの波とバッティングして語られてしまうとなればこんなに不幸なことはありません。

    当然、見立てはその通りになりました。

    「認識の上に成り立つ希少性は、決して、事実の上に成り立つわけではないのです。」

    良いクリエイティブでも、それが世界に広がっていかなければ「存在していない」と言われるのと同じように、認識の上に直接の関係が育まれた時、初めて希少性が価値を持つのです。

    私には、最も当たり前の原則のように思われます。

  • AIとの向き合い方

    多くの人にとって、AIが段々身近なものになりつつあります。

    日本人全体から利用者を正規分布で抽出する時、感覚としてまだ前半の33%くらいの人しか触れていないのではないですかね?

    余談はさておき、今回はそんなAIとの向き合い方の話です。

    もういつの頃かは忘れてしまいましたが、YouTubeでスティーブ・ジョブズがインタビューを受ける動画を見たことがあります。

    「地球上で燃費効率が良い動物を比べたら1位はコンドルだった、霊長たる人間は下から3番目だった。」

    こんなことを言っていたと思います。

    しかし、私が鮮明に(言葉自体はうろ覚えですが)覚えているのはその後に彼が言ったことでした。

    「でも、どうしてかはわからないが”自転車に乗ったヒト”もそこに入っていたんだ。コンドルなんて追い抜かしてぶっちぎりで1位だったよ。人間は、道具を発明することによって能力を格段に向上させることができる、きっとコンピュータもそうなんだ。」

    私には、この彼のニュアンスがすごく頭に残っていました。

    自転車を仮に「身体の道具性」として捉えるならば、コンピュータはどうなるのだろうと。

    「思考の道具性?」でもそれも少し違う気がしました。

    それから暫くして、大規模言語モデルを通じた’AI’という概念が世の中に広がりました。

    私は、「これだ」と思いました。

    AIこそ「思考の道具性」だと。

    結論としては、

    「AIは思考の道具性として自転車のように使わなければならない」

    というのが私の意見です。

    例を挙げましょう。自転車も自動車も私たちを遠くへ、そして速く連れて行ってくれます。しかし、前者は脚力を増幅させて推進力を生むのに対し、後者はエンジンを燃やすことで推進力を得ます(アクセルペダルとかの話は置いておきましょう)。

    どちらも同じ目的を達成することができますが、後者は人間の筋肉を衰退させてしまいます。本人も気づかないうちに、少しずつです。

    AIも同じです。自動車のように使ってはいけません。常に自身の能力の増幅装置として、自転車のように使っていかなければならないのです。

    技術は面倒ごとを、’楽’にします。

    しかし、

    楽の種類も、

    考えなくてはなりません。

    身体も思考も道具に頼れば、

    あなたには何が残るのでしょう。

    まずはこれを、’思考’してみましょう。