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  • Promptpediaを作るにあたって

    https://promptpedia.jp

    ↑今回の議題であるPromptpediaのリンク

    1.インターネット世界の変容

    私たちの世界で、AIによる結果としての変革が進んでいる。

    例えばGoogle検索においてはこんな記事がある。

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    【SEO壊滅】AI検索が、マーケティングの常識を破壊している
    https://npx.me/s/xQ9I8JDg

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    Google検索に、新しく登場したAI Overview。

    記事の中にはこんな記述が目立った。

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    。AI Overviewでオーガニックのトラフィックは18〜64%減少する、とあるSEO専門家は分析している。

    ほかの分析も追随している。

    「AI Overviewで、クリック率(CTR)は34.5%減少する」

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    これは私たちの検索体験が大幅に変わっていることを意味している。また、検索ブラウザ自体にもこんな変化が生まれている。

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    https://x.com/codebypoonam/status/1921230481821233651?s=46&t=HYr1nMBEUGc4jDN8S_azFg

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    以上はFellouという、「利用者=AI+人」に最適化された新しい検索ブラウザの形をChromeと比較して紹介したものだ。

    このツイートの視野外のものとしては、完全AI向けのブラウザも存在するようだ(名前は忘れました)。既存の検索ブラウザでは、グラフィックや広告など、AIによるウェブ検索(Deep Research)にとってノイズとなる要素が多く含まれていたため、検索効率やその精度に悪影響を及ぼしていた。のだが、それらを一切含まないのがそのブラウザであり、効率や精度が飛躍的に向上したというニュアンスであったはず、、である。

    2.何を変えるか

    専門書の時代があった。それからインターネットに情報が増えていくと、やがてWikipediaがインターネット百科事典としてその存在を確立した。しかし、それもまた少しずつ廃れつつあると考える。

    教育界を見てみよう。

    Wikipediaの内容が一般に論文に使えないとされるように、現在は、AIからの文献もまた一般に論文には使えない(出自をはっきりさせるなどやり方はあるかもしれない)ことが多いようだ。

    両者の違いは似て非なるものだ。

    私たちには、AIに対して、

    「正しい情報を効率よく正確に捉える」

    だけでなく、

    「正しいプロセスで正しい実行を遂行させる」

    ことができる。

    かつて「Wikipedia」をもって世界が「集合知」を求めたように、「何か」をもって世界が「集合知行」を求める時代が必ずやってくる。

    そこで、その「何か」を作ることにしたのだ。

    3.制作にあたって

    作るにおいて、いくつかの制約を設けた。

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    ・Wikipediaの面影を踏襲すること

    ・表示や操作がシンプルであること

    ・カテゴライズを考えること

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    などである。

    とりわけ、カテゴライズには苦労があった。

    例えば次のことを想像してみて欲しい。

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    仮定:

    ハルシネーションをプロンプト内で自由制御可能

    実行:

    AIに「取扱説明書」と「小説」の執筆依頼

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    同じプロンプトで同一のハルシネーションレベルが指定できないとなった場合、結果はどうなるだろうか。

    より直感的には次の例もある。

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    鉄棒ができるようになるには

    机上の計算が先か、やってみるのが先か。

    家を建てるには、

    机上の計算が先か、やってみるのが先か。

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    そういう違いがあるのだ。

    しかし、列挙したカテゴライズは実に50個。

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    ・表示や操作がシンプルであること

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    という箇所に反してしまう。致命的である。

    これがなぜ致命的なのか。

    それは、現代人は「待てない」からだ。

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    ・ストレスへの適応前に逃げてしまう

    ・端的で明快、ドラッグlikeなコンテンツを好む

    ・AIはストレス回避と耐性の欠如を促進させる

    ✴︎上記のユーザー(全世代)がターゲット

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    なのだ。あまりにも辛い見方である。

    さらに私は、

    流行とは

    「必ず極地と極地を行ったり来たりするもの」

    だと考えている。

    それは効率という観点においても例外ではない。

    が、例外ではないだけで、株式のグラフが常に右上を目指すように、効率も向上という誘惑からは逃れることができない、揺れ戻しがあってもその基盤は確実にスライドしていくと考えるのだ。

    次に続く、、、かも。

  • AIとの向き合い方

    多くの人にとって、AIが段々身近なものになりつつあります。

    日本人全体から利用者を正規分布で抽出する時、感覚としてまだ前半の33%くらいの人しか触れていないのではないですかね?

    余談はさておき、今回はそんなAIとの向き合い方の話です。

    もういつの頃かは忘れてしまいましたが、YouTubeでスティーブ・ジョブズがインタビューを受ける動画を見たことがあります。

    「地球上で燃費効率が良い動物を比べたら1位はコンドルだった、霊長たる人間は下から3番目だった。」

    こんなことを言っていたと思います。

    しかし、私が鮮明に(言葉自体はうろ覚えですが)覚えているのはその後に彼が言ったことでした。

    「でも、どうしてかはわからないが”自転車に乗ったヒト”もそこに入っていたんだ。コンドルなんて追い抜かしてぶっちぎりで1位だったよ。人間は、道具を発明することによって能力を格段に向上させることができる、きっとコンピュータもそうなんだ。」

    私には、この彼のニュアンスがすごく頭に残っていました。

    自転車を仮に「身体の道具性」として捉えるならば、コンピュータはどうなるのだろうと。

    「思考の道具性?」でもそれも少し違う気がしました。

    それから暫くして、大規模言語モデルを通じた’AI’という概念が世の中に広がりました。

    私は、「これだ」と思いました。

    AIこそ「思考の道具性」だと。

    結論としては、

    「AIは思考の道具性として自転車のように使わなければならない」

    というのが私の意見です。

    例を挙げましょう。自転車も自動車も私たちを遠くへ、そして速く連れて行ってくれます。しかし、前者は脚力を増幅させて推進力を生むのに対し、後者はエンジンを燃やすことで推進力を得ます(アクセルペダルとかの話は置いておきましょう)。

    どちらも同じ目的を達成することができますが、後者は人間の筋肉を衰退させてしまいます。本人も気づかないうちに、少しずつです。

    AIも同じです。自動車のように使ってはいけません。常に自身の能力の増幅装置として、自転車のように使っていかなければならないのです。

    技術は面倒ごとを、’楽’にします。

    しかし、

    楽の種類も、

    考えなくてはなりません。

    身体も思考も道具に頼れば、

    あなたには何が残るのでしょう。

    まずはこれを、’思考’してみましょう。